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岡山恭崇選手(230cm)の現役時代(1987年/33歳)Most tallest Japanese basketball player, Yasutaka Okayama, 7.6ft

2021-01-28 10:58
八村塁選手のドラフト指名で一躍話題になった、岡山恭崇(230cm)選手の現役時代の動画です。 1987年のオーストラリアとの試合の様子です。 背番号は5番です。 1954年生まれなので、当時33歳。選手としては晩年です。 岡山選手は、住友金属に所属し、リバウンド王、得点王などを獲得した名選手です。 アジアでは中国の穆鉄柱(228cm)と並び、最も背の高い選手の一人でした。 1984年ごろにアジア大会で日本と中国が対戦したことがあり、岡山選手と穆選手も直接対決しましたが、身長ではやや岡山選手の方が高かった記憶があります。 穆鉄柱選手は本当に背が高いだけで、シュートフォームも不格好でリバウンドを取るだけのの選手でした。 身長230cmには諸説ありますが、当時サントリーボール(NCAAの公式戦)で来日したラルフ・サンプソン選手(223cm)との記念写真では、10cm近く岡山選手の方が長身でした。 岡山選手は、手先の器用さがあり、フリースローやフックシュートなども比較的上手でしたが、身体能力には恵まれませんでした。 当時の日本リーグの選手名鑑では、50m走が8.3秒、垂直飛びが38cmと記録されていた記憶があります。 ツインタワーとして同時期に活躍した、北原憲彦選手(201cm)が、50m走が6.5秒、垂直飛びが65cm(確か)でした。 北原選手は190cm台の選手と比べても見劣りしない運動能力で、この時代の日本のエースでした。 ちなみに、日本初の2m選手は、松下電器の沼田宏文選手(204cm)と言われていますが、動きはかなり悪くほぼディフェンス専門の選手でした。 1980年代でも、比較的動きの良いよい2m選手はいました。 斉藤文夫(201cm)、武田和夫(202cm)、馬場敏春(200cm=馬場雄大の父)などは、運動能力の高さは感じさせましたが、選手としてはあまり大成しませんでした。 ちなみに、馬場敏春選手はボールハンドリングもよく、当時の小浜敏孝前日本代表監督から目を掛けられていました。 ゆくゆくはマジック・ジョンソンのようなポイントガードに育てようと指導されていましたが、所属の三井生命ではセンターだったので、ガードとしては大成しませんでした。
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